真作 高島秋帆・三行書・紙本・掛け軸
本紙=縦1092×横298mm 紙本
本紙の下部に、少し墨の汚れがあります。(画像3)
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高島 秋帆
寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。
文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、後に長崎会所調役頭取となった。
藤沢東によって大坂市中に開かれた漢学塾であった泊園書院に学ぶ。
当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本
砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、
出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5
年(1834年)に高島流砲術を完成させた。
また、この年に肥前佐賀藩武雄領主であった鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835
年)に免許皆伝を与えるとともに、
自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。
その後、アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化
を訴える意見書『天保上書』を提出して
天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で
日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。
この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であ
り、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府の役人が
「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中
に鎖国・海防政策の誤りに気付き、
開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。
攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範
となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した。
慶応2年(1866年)、69歳(満67歳)で死去した。
[本棚左二]