
文庫です。 きれいなほうです。
キリスト教文学の傑作『沈黙』から14年。
『イエスの生涯』『キリストの誕生』と書き続けた著者の後期代表作。
藩主の命によりローマ法王への親書を携えて、「侍」は海を渡った。野心的な宣教師ベラスコを案内人に、メキシコ、スペインと苦難の旅は続き、ローマでは、お役目達成のために受洗を迫られる。七年に及ぶ旅の果て、キリシタン禁制、鎖国となった故国へもどった「侍」を待っていたものは――。
政治の渦に巻きこまれ、歴史の闇に消えていった男の“生"を通して、人生と信仰の意味を問う。
著者の言葉
私は、そんな信念を守り通す強虫の生き方も書いてみたいと思ったのです。弱虫、つまり憐憫という感情に従う人間と、強虫、つまり自分で自分の運命を作りあげていくような人間、そんな二人を小説に書いてみたくなった。
では、その二人がどこで何をすれば小説になるのか? 『沈黙』は長崎で踏み絵を見たから書けましたが、今度はなかなかいい材料にぶつかりませんでした。ところが、仙台へ行った時、支倉常長(はせくらつねなが)の肖像画を見たのです。(略)
一方、常長についてローマへ行った宣教師のソテロは、日本に布教するためには何でもしてやろうという野心家でした。日本人を騙し、常長を騙した強虫です。彼は禁教令が敷かれた日本へわざわざ帰ってきて、捕まって処刑されます。
運命にただ従っていった弱虫の支倉常長と、自らの運命を作り上げていこうとした強虫の宣教師ソテロ。「あ、この二人なら、ずっと考えてきたテーマにぴったり合うんじゃないか」と思って、『侍』を書き始めたのです(注・『侍』では、それぞれの名前は長谷倉六右衛門とベラスコ神父)。(「波」2016年10月号)
本書「解説」より
本書はヨーロッパへの航海という単なる外面的な次元をこえて、さらに自伝的である。地球をめぐって旅をする自分に、つねにつきまとってくるように見える十字架を見て、(主人公)長谷倉の味わう不可解さと、強い反感さえも含む感情は、著者が若い時代の自分の中に見出すものと異質ではない。『侍』の中で、長谷倉がマドリッドで洗礼を受ける場面があるが、これは十一歳のとき遠藤自身が体験した洗礼の儀式を、不気味なまでに正確に再現したものである。長谷倉と同じく、遠藤もまた、みずからの意志でキリスト教を選んだのではなかった。
――ヴァン・C・ゲッセル(カリフォルニア大学助教授)
遠藤周作(1923-1996)
東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごす。神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て1955年「白い人」で芥川賞を受賞。結核を患い何度も手術を受けながらも、旺盛な執筆活動を続けた。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品や歴史小説、戯曲、映画脚本、〈狐狸庵もの〉と称されるエッセイなど作品世界は多岐にわたる。『海と毒薬』(新潮社文学賞/毎日出版文化賞)『わたしが・棄てた・女』『沈黙』(谷崎潤一郎賞)『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』(読売文学賞)『侍』(野間文芸賞)『女の一生』『スキャンダル』『深い河(ディープ・リバー)』(毎日芸術賞)『夫婦の一日』等。1995年には文化勲章を受章した。