サイズは、徳利:口径2,4×高さ12×底径3,8㎝
猪口:径5,2×高さ3,5×高台径2,8㎝です。
ホツやニュウはありません。美品です。
江戸末期(1841年)天領だった飛騨高山の渋草という場所に、当時の郡代(豊田藤之進)が初めたやきもので、原料に陶石を使った手造りの白い器(磁器)に手描きで渋草調といわれる独特の絵付を施し、現在もその伝統を守って飛騨高山にて製造販売しております
明治時代「勝海舟」に名付けられたと云う「芳国舎」の社名を誇りとし、職人一同心をこめて造っております
飛騨高山で江戸末期から続いている手造り、手描きの焼き物(陶器、磁器)です。
創業は1841年(天保12年)。
渋草焼は、現在も昔のままの建物の中で作業をしております。
その場所が「しぶくさ」という地名により渋草焼となりました。
高山は江戸幕府の直轄地(天領)でした。
天保12年(1841)その時の高山陣屋、飛騨郡代豊田藤之進が地元に新たな産業の発展を目ざし、陶磁器の製産を御用商人に計画させ、現在の陶房所在地「渋草」という地名のところに半官半民の陶磁器製造所を開窯させたのがはじまりです
開窯にあたり、最初に陶工を九州肥前唐津より招き、絵師も加賀九谷より曽我竹山(曽我徳丸の父)・富士造・周山(かねやま)など、また尾張瀬戸からも戸田柳造なども招いている
郡代豊田藤之進・次郡代小野朝右衛門(山岡鉄舟の父)など、そして代々郡代を支え続けた元締 川島奥六の功績は大きいと思われます
明治11年、名家・事業家の三輪源次郎の呼びかけで同じく名家・事業家の永田吉右衛門、平瀬市兵衛、阪田長五郎、四名の組合組織で陶業を再興し、社名を「陶甄社」(とうけんしゃ)とした
その後、明治12年 明治政府、後藤象二郎などの関わりのもと、勝海舟翁の命名により【芳国社】とし会社設立届を知事宛に提出。より良い作品を作る為に、職人達を京都や有田に勉強の為派遣させ技術向上に努めた
製品は、代々職人の技で引き継がれ「芳国社(舎)」としてパリ万国博覧会(銀賞)・日英博覧会(銅賞)・国内共進会等に出品し数多くの功績を残しております
九谷・有田・京都・瀬戸・美濃の手法を学び深みのある白い膚の磁器で独特な【渋草調】を生み出し、染付・赤絵・青磁など昔ながらの手造り手描きにより、伝統を保持しながら皆様に喜んで頂けるよう製作に励んでおります