木下正三氏
1946年に愛知県大府市(おおぶし)に生まれた木下正三(しょうぞう)氏は5歳の頃から検波器と呼ばれる部分に鉱石や天然石を使用する鉱石ラジオ作りに興味を持ちました。以来半世紀にわたり音の世界に魅かれ、音楽の感動とともに現在に至っています。
1079年のパイオニア時代、木下氏の「やるからには極める」といった気質が生み出したのがTAD TD-4001コンプレッションドライバーです。TD-4001の開発では、「シンプルで誰にでも分かるものこそ本物である」という考えを持ち、木下氏が熱心に実用化に取り組んできたベリリウムを採用するにあたり、不確実な超高域の再生に焦点を当てるのではなく、誰にでもわかる中音域の再生を強化することで圧倒的なエネルギー再生を実現し未到のサウンドクオリティを獲得出来ると信じて完成させました。
プロフェッショナルオーディオ界へ
TADの開発は、米国プロフェッショナルオーディオ界の大御所であるBart Locanthi(バート・ロカンシー)氏との共同製作で行われました。バート・ロカンシー氏は1950年頃にコンピューターによるスピーカーのシミュレーション技術を築き上げ、1960年代にはJBL社の副社長にまで登りつめ、そして1970年代から1980年代にはアメリカ合衆国のプロフェッショナルオーディオ界のトップに立ち牽引した一流エンジニアです。1980年台後半には、AES(Audio Engineering Society)の会長を務めました。木下氏とロカンシー氏はプロフェッショナルオーディオの本場米国にTADを持ち込み、その実力を披露したところ、TADの真価は業界全体に衝撃を与え、一気にスタジオ、そしてコンサートへと行き渡りました。この評判は追って日本に逆戻りし、日本製と知らず米国へ買い求めて向かった関係者も多かったそうです。初期の実績は西海岸を拠点とするスーパースターのEagles(イーグルス)やGrateful Dead(グレートフルデッド)、Neil Percival Young(ニールヤング)らのコンサートでした。
1979年から開始されたイーグルスのラストツアーで使用されたサウンドシステム「TAD TD-4001+TL1601」は、木下氏の設計に基づきノースウエストサウンドによって製作されたものです。TAD TD-4001+TL1601は、30Hz、30mにおいて130dBという前代未聞の超低域再生を実現し、アメリカ合衆国のコンサート界に衝撃を与えました。これにより超低域の重要性がオーディオ界に浸透し、その後の流行を生み出しました。
またスタジオモニターの当時のトレンドは、3~4ウェイにマルチアンプ、さらにEQを追加するという複雑な形へ向かっていましたが、高性能なTADユニットの登場によってシンプルな2ウェイの魅力が再評価されるようになりました。こうして1979年頃には、Electric Lady Studio(ニューヨーク)やKenDun Studio(カリフォルニア)など、多数のスタジオで3ウェイから2ウェイへの切り替えが目立ちました。しかもこの移行はその後のレイオーディオに重大なインパクトを与えたTom Hidley(トム・ヒドレー)氏との出会いに繋がります。
ホームオーディオ・カーオーディオ
木下氏は、「最高に自然で表現の豊かな音質はあらゆる場面において常に最上の結果を生む」という理念の元、一心によい音を追求し多くのプロフェッショナルの支持を獲得してきました。TADやREY AUDIOを主としてプロオーディ業界で活躍してきた木下氏ですが、プロフェッショナルオーディオを特別な音質と考えたわけではありませんでした。木下氏の生み出すオーディオ製品は情熱的なオーディオ愛好家にも熱く支持され、当初の大型モニターに加えてニアフィールドモニターKM1Vがリリースされると大いに歓迎されました。さらにパワーアンプに加えてドライバンプMSP-1は至高のプリアンプとして音楽愛好家の憧れの的となっています。そしてカーオーディオファンの熱い要望に応えて、Kinoshita-Davisカーオーディオスピーカーも開発しました。
REY AUDIO 創立
Tom Hidley氏(中央)と木下氏(右)
1984年、木下氏はより自由でクリエイティブな活動を志向し、REY AUDIO(レイオーディオ)を創立しました。同時に、世界中のエンジニアから羨望の眼差しで見られていたTom Hidley(トム・ヒドレー)氏と連携する関係を築き、ヒドレー氏の設計するスタジオにKinoshita Monitor(木下モニター)が導入されていきました。ヒドレー氏はこれまで600を超えるスタジオを設計しただけでなく、サウンドトラップの発明者としても有名な人物です。経歴は、ジャズ プレーヤー、レコーディングエンジニアとして活躍した後、スタジオモニターとスタジオ設計の会社であるWestLake Audio(ウエストレク・オーディオ)を設立、その後EastLake Audio(イーストレイク・オーディオ)を経て、Tom Hidley Design(トム・ヒドレー・デザイン)を設立しました。 ヒドレー氏は木下氏と出会って以降、自身で作っていたモニタースピーカーの製造を中止しスタジオ設計に集中するようになったほど、木下氏のスピーカー技術を信頼していたようです。
Kinoshita Monitorは、ことに海外ではヒドレー氏によって素晴らしい環境が用意されていた為、常に高い評価を獲得していました。スタジオエンジニアやミュージシャンによって保証されたその地位は伝説にまでなっています。木下音響は現在も20カ国を超えるの世界中のスタジオで活躍しています。
スタジオのデジタル化時代へ
レイオーディオの創業はまさにスタジオデジタル化の時代と重なり、新しいスタジオの建築、既存スタジオのリニューアルが目立ちました。レイオーディオも次々にモニターの性能を進化させ、1989年にバーティカルツインを発明します。上下にウーファーを配置しその中間にツイーターを挟むというバーティカルツイン方式は、正確さを極めた新発想のスピーカーとして世界各国から強い支持を得ました。そして遂にレイオーディオのトップモデルであるモニタースピーカーRM-7Vを実用化することに成功し、不動の人気を獲得しました。その頃、海外だけでなく国内においても木下モニターの新規採用率は80%にも迫る勢いで普及していきました。
一方で、日本では多様な音響設計のなかで使用されるスタジオアコースティックの欠点が注視されるようになりました。そこで木下氏は、建築音響に関する独自の研究とこれまで積んできた経験を活かし、スタジオやリスニングルームの音響設計にも着手しました。とりわけ有名なのは、世界でも比類ない音質とともに優美なスタジオとして知られた一口坂スタジオです。
コンサート用システムの開発
日本初の野外フライングシステム(Select Live Under the Sky ‘87,88)
木下氏は、「もっと多くの人に音の素晴らしさを知ってもらいたい。」という思いで、コンサート用システムにも注力しました。木下氏が最初に手がけたのはなんと、1979年に武道館で開催されたイーグルスです。この伝説的なコンサートで披露されたサウンドは、その場にいた誰もが活き活きとしたサウンドを今でも熱弁するほどの熱狂的なものでした。これがプロフェッショナルオーディオにおけるTADの、そして木下氏の日本デビューとなりました。
以降、1984年のオフコース武道館10日間コンサートや1985年のオフコース代々木競技場、1986年冨田勲-長岡、1987年~88年に日本で初めて野外フライングシステムを導入したライブアンダーザスカイ(上写真)、1987年~92年に10万人規模のコンサートとなったジャパンスプラッシュ、1993年の福岡ドームオープニング、同年のチャゲ&飛鳥・横浜アリーナといった数多くの巨大コンサートに取り組みました。同時に、美空ひばり、島倉千代子、中島みゆき、プリンセスプリンセスなど多くのビッグスターのツアーシステムにも携わっていました。