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江戸時代 文化文政の頃から伏見人形を模倣し製作が始まり
白い粘土で張子のような薄手の造りで
非常に軽く明るく淡い彩色に特徴がある
また 彫りが浅い為 人形の表情など
彩色による表現にその力点が置かれ
自由でのびやかな土人形として作られている
変化に富んだ軽妙な構図と 生き生きとした表情に他にはない魅力がある
最盛期は明治二十年頃で 昭和の初期にほぼ廃絶した
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(2026年 4月 3日 23時 00分 追加)稚児とは、学問や躾のために寺院に預けられた少年であり、僧が学問を教え、芸事や日々の生活を躾けていた。王朝女房風に化粧する稚児の期間は、17 - 19歳までの4、5年であった[7][8]。皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる者、中流貴族出身で預けられる者、庶民階級の者が美貌などの一芸により雇われるものの三種類があり、皇族や上位貴族の子弟以外の稚児が性の対象となっていた[9]。東京大学の松岡心平は、高貴の僧に師弟の契約をして仕え、性も提供する、選ばれた女装の美少年たちが、稚児、上級の童子である「上童」だと述べている[10]。猿楽者の世阿弥や田楽者の福若丸のような卑賤の芸能者の子弟が稚児になることもあり、室町将軍といった貴顕にも稚児としての資格で近侍していた[11]。僧の身の回りの世話をし、性の相手もする稚児は、天台宗や真言宗では「児」といい、禅宗や律宗では喝食と呼ばれたが、内実は同じである[12]。平安中期以降の説話集や和歌集には、少年である稚児と僧侶の恋愛に関わるものが数多く収められている[13]。
稚児文化[注釈 3]は、天台宗の寺院に源がある[14]。仏教では初期仏教以来、修行の妨げになることを避けるために、性交を禁じる不淫戒があり、特に僧が女性と性交することは「女犯」として戒律で禁じられていた[15]。また仏教で女性は穢れた不浄な生き物と考えられていた[15]。日本で僧と寺院は国家統治の理念として重要な存在で、国家により特権を与えられ保護されていたため、僧は教団だけでなく国家から法的に性を制約され、処罰されるという面もあった[15]。例えば『公事方御定書』では、女犯の罪を犯した僧は島流し、修行僧は日本橋で晒し者にした後僧籍を奪し裸で追放、既婚の女性と性交した僧は、斬首後に首を刑場で晒し遺体は刀の試し切りに使うとされていた[15][注釈 4]。こうしたことから、僧は女性との性交を避けるために、身の回りの世話をしていた少年、稚児を性愛の対象としてきたといわれる[6]。
真言宗、天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた[注釈 5]。平安時代の終わりごろには、日本の仏教寺院では半ば公然の存在であったが、これは東アジアの仏教文化圏において特異であると言える[17]。朝鮮半島における新羅時代の花郎は稚児に近いが、古代に廃されており、中近世には見られない[17]。中世以降の禅林[注釈 6]や華厳宗などにおいても、稚児・喝食は主に男色、衆道の対象であった。なお、当時の寺院社会には僧侶同士の恋愛はみられず、小山聡子は、稚児は単なる女性の代わりではなかったのだろうと述べている[18]。天台宗では、秘儀「児灌頂」[注釈 7]を受けた少年が稚児とされ、神聖なる菩提山王[注釈 8]の化現、観音菩薩と同体である神聖な存在となり、僧侶に性愛を通じて救いを与えると考えられていた[19][20]。中世において、稚児 = 観音という観念は強固なものであり、また天皇の即位灌頂を模した児灌頂を受けた稚児は天皇の分身であるとも言え、僧にとって「犯すべき」稚児は衆生を救う絶対的聖であり、僧は稚児を崇拝しつつ従属させ、凌辱した[21][22]。
稚児物語で最もよく知られる『秋夜長物語』は、煩悩深き僧侶が主人公で、稚児と恋愛関係になるが、稚児は非業の死を遂げ、僧侶はその死を機縁に真の仏道に目覚める、稚児は僧侶を悟りの道に導くため石山観音が化身したものであったというストーリーであり、稚児物語の多くは、稚児が何々の化身で、稚児の犠牲死によって僧侶が真の悟りを得るという構造を持っている[23]。
禅宗大徳寺の一休宗純も美少年を愛で遊んでおり、浄土宗門主の知恩院宮尊昭法親王も山科桃丸という稚児を持ち、『徒然草』の吉田兼好も命松丸という稚児を寵愛する等、稚児を持ち昼夜身辺を世話させることは、宗派・僧の身分に関係なく行われていた[24]。華厳宗東大寺の宗性のように、およそ100人の稚児と関係を持った僧侶もいたという。江の島の稚児ヶ淵は、鎌倉相承院の稚児白菊が鎌倉建長寺の僧自休に度重なる強引な求愛を受け、それを苦に入水自殺したことに由来する[25]。平松隆円によると、史料からは僧の性の対象である稚児として、生きるために僧の心を繋ぎ止めようとする打算と悲痛を見ることができるが、稚児が菩薩として性愛で僧を救うことを喜ぶような言葉はみられない[26]。
仏教では悪行悪果、善行善果の因果応報の教えがあり、容貌の美しさは前世での善行の善果であるとみなされ、美は尊敬すべきことと考えられていた[27][注釈 9]。中世の僧は醜貌の職業であったとも言われ、平松隆円は、小頭、斜視、奇形、短躯などの身体的特徴を持つ人が家族や地域共同体により寺に預けられ、寺には醜貌のものが集まっていたと推定し、その中で前世の善行で美貌に生まれた稚児は羨望の存在であり、こうした稚児との性交には救済の道という意味があったのではないかと述べている[28]。美少年を大金を対価に稚児にしようと口説いた僧や、金品を強奪するだけでなく美少年を誘拐する熊野の僧兵の存在の記録も残されており、また謡曲『花月』には英彦山で天狗の神隠しにあい京都清水寺の稚児となった少年のエピソードがあるが、この天狗とは、少年を誘拐した人買いか山伏の比喩だと言われる[29]。僧は美しい稚児を傍に置きたいと願い、少年の買い取りも行っており、人買いがその供給を担っていた[29]。また飢饉の際には、口減らしのための子捨て・子売り、子どもを誘拐して売るといったことが日常的に行われており、子別れは珍しい事ではなかった[30]。
稚児の美化の方向は、「王朝の女性あるいは王朝憧憬の中にある女性像への近接」であり[31]、稚児は垂髪または稚児髷にし、眉墨を引き、口紅や白粉をぬり、お歯黒にするという平安貴族女性と同様の王朝女房風の化粧をし[8]、極彩色の水干を着た。又、女装する場合もあり、その場合、少女と見分けがつきにくかった。松岡心平は、『秋夜長物語』で描かれる稚児について、「日本中世のデカダンスの美である『しほれ』の風情」を漂わせており、このような稚児の幽玄は、「稚児自体のもつ宗教的幽邃の中から浮かびあがった、”花”のごとく際立つ優美」であると述べ、こうした稚児の在り方は、内裏の奥で「幽玄にてやさやさと」とあるという当時の天皇の在り方と通底すると指摘しており[32]、天皇と稚児は「聖なる無力」という点で通じていると述べている[17]
稚児は「容顔才知ともにすぐれ遊戯をたしなみ管弦音曲をよくする者」が最上とされた[3]。稚児は美しいだけでなく、知性があり、僧の身辺の世話が十分できる必要があり、今東光は、僧には師弟契約を結んだ稚児を育てる責任があり、古来より寺には稚児の教育の厳しい掟があり、振る舞いや心遣いを教育したと述べている[22]。こうした稚児の育て方、守るべき掟は、守覚法親王の『右記』などで詳細を知ることができる[22]。稚児は「幽艶を専らにする身」[注釈 10]として、日課・身繕い・礼儀作法などを厳しく仕込まれ、こうして美しく磨かれた稚児は、「風になびく柳、露を含んだ桜花」に喩えられ、その「しほれたる風情」は媚態と捉えられ、人々を惑わせた[33]。僧侶による稚児の姿態・動作への強い規制は、稚児を純粋美化し、ゼロ記号化するという強い欲求の表れとみなされている[34]。課せられる厳しく細かい掟を稚児が守ることができなくても、それは稚児ではなく僧の責任とされた[22]。一方稚児は、父子関係や君臣関係のように主人である僧に奉仕し、心身共に従属することが求められた[22]。延年舞は、僧が手塩にかけて育てた自分の稚児を自慢する機会になっており、稚児の品評会の面があったとも推定され、稚児の評価は主人である僧の評価につながったと思われる[35]。
稚児は文芸の分野でも活躍し、僧と稚児の恋愛贈答歌群が多くを占める『続門葉和歌集』(1305年)が編まれ、連歌の席ではプロの老連歌師を虜にするような優れた歌を詠むこともあった[36]。また、立花[注釈 11]は初期には稚児・喝食の教養の一つであり、彼らが担う面があった[36]。
稚児は成人に達すると還俗する場合が多いが、出家して住職となった者もいたようである。しかし、稚児が皆望むような道に進めたわけではなく、稚児のうち「大童子」は出家することはできず、老年になっても童姿で務めを果たしており、僧になれず童姿で生涯寺院で過ごすものも少なくなかった[37]。興福寺の尋尊が寵愛した稚児の愛満丸のように、寺院に僧籍のない正式ではない僧になる者もいた[37]。
稚児を「受難としてのエロス的身体」という悲惨な客体とみなし、それを美学とする稚児文化は、足利義満の時代がピークであった[38][39]。義満は還俗させた美童の足利義嗣を寵愛し、また法的にも儀礼的にも自身を上皇に擬しており、応永15年(1408年)には後小松天皇の御幸を迎えて稚児尽くしの豪華絢爛な宴を催している[38]。義満の時代が終わると『秋夜長物語』的な凄惨な稚児の美学も終わりを迎えたが、稚児という表象は変質しつつも、能などの様々な文化領域で生き続けた[38]。猿楽が足利将軍の後援を受けるようになった契機は、1374年の今熊野猿楽だが、この際に12歳の美少年世阿弥[注釈 12]が稚児姿[注釈 13]で「児[注釈 14])」役を演じたと考えられ、観世座はここから何百年に渡り権力のバックアップを受けるようになった[40]。後年の50代の世阿弥は、自らの稚児時代を客観視して再評価し、「稚児の身体」を美の基本要素が集約される理念的な身体モデルとして積極的に捉え直している[41]。
公家や武家でも側近に稚児を置いたが、寺院の稚児をまねたものといわれる[2]。武家の稚児は小姓となり、武家の男色につながった[2]。
天台宗の児灌頂
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天台宗では、少年を稚児という特別な存在に変える秘儀「児灌頂」[注釈 15]という儀式が行われたが、これは天皇即位の際に行われた天台即位法[注釈 16]という秘儀に由来する、特別な存在になるための仏教儀式で、稚児を菩提山王[注釈 17]の化身とする儀式である[42]。内容的には、阿闍梨が手ずから稚児に鉄漿を施し化粧を行うこと以外、ほぼ一般的な灌頂作法となっている[43]。児灌頂を受けた稚児は、十禅師が衆生救済のために稚児の姿を取って現れたものであり、慈悲をもって一切衆生を救う観音菩薩と同体とされ、衆生に慈悲を与える存在とされた[19][44][45][46]。児灌頂を受けた少年は「○○王」または「○○丸」と命名された[47]。稚児は僧侶に性愛を通じて救いを与える存在であり、稚児との性的な行為は悟りに至るための宗教的な行為だと考えられていた[19]。僧は生身の稚児そのものを犯すのではなく、稚児の性を通して観音菩薩と契るとみなされており[45]、僧は児灌頂を受けた稚児との性交で性欲を含め煩悩を消し去ることができ、稚児との性交は救いであるとされた[26]。平松隆円は、菩薩の化身である稚児との性交は尊いという考えには、神に仕える者[注釈 18]との性交は神との交流を可能にするという日本の土着的思想の影響があると指摘している[48]。