湯浅邦弘
「中国最高傑作の処世訓を味わう」
中国では多くの処世訓が書かれ、そして長年にわたって読み継がれてきました。それはすなわち、中国が長く厳しい乱世にあったことの裏返しでもあります。
処世訓の歴史は古く、春秋時代(前七七〇~前四〇三)にはすでに諸国において、自国の歴史を教訓としてまとめた書が蓄積されていたようです。
今回ご紹介します『菜根譚』は、明代の末、十六世紀から十七世紀頃に書かれた処世訓の最高傑作です。現代の日本ではあまりなじみがありませんので、この書名をはじめて目にする方もいらっしゃるかもしれません。野菜の根を意味するタイトルから、中国料理の指南書でも取り上げるのかとびっくりなさった方もおられるかもしれません。漢方のお店に並んでいる瓶詰めの根っこを連想して、漢方薬の本かもしれないと思われた方もいらっしゃるでしょうか。
「菜根」は、確かに野菜の根のことですが、料理や薬の本ではありません。しかし、よくんで何度も味わって読んでいただきたい名言がたくさんつまった、すばらしい処世訓なのです。
『菜根譚』が書かれた明代末は、漢民族による長期安定政権が末期を迎えた時代で、政治的腐敗により、他民族からの侵略を受けたわけでもないのに国の中枢が自壊・自滅していくような時代でした。権力を持つ者の関心は国民にはなく、対立する政策集団が互いを批判しあう醜い政争にあけくれていました。そしてその弱みにつけこむかたちで農民反乱が起こり、やがて明は瓦解していくことになったのです。
私にはその明代と現代日本とが、いささか重なって見えるところがあります。バブルがはじけたあとの閉塞状態に大災害が重なり、国中が疲弊しているのに、政治の舞台では国民そっちのけで政争をくり広げているように思われるのです。
このように倫理や道徳が形骸化した時代には、人々は生きていく上での指針を失ってしまいます。なにを信じて生きていったらいいのか、なにを頼りに暮らしていったらいいのかという支えが見えなくなってしまうのです。『菜根譚』はそういう時代に書かれた処世訓です。著者の洪自誠については詳しいことはわかっていませんが、おそらく優秀な官僚として活躍したのちに、政争に巻き込まれて引退した人物ではないかと思われます。実際に体験した役所勤めや引退後の暮らしから得たであろう教訓が、簡潔な文章で書かれています。
不遇をかこちつつも、人生を前向きにとらえる洪自誠の一言一句には、人生を生きる上での心構え、逆境にあってもなお輝く人間の真価のありかたなど、直接心に響くメッセージが溢れています。おそらく、鋭い人間洞察と、自分の歩んできた人生への真摯な反省が、普遍の思想となって結晶し、誰が読んでもきらりと光ってハッとさせられる教訓となっているのでしょう。