殆どの日本人が磁器の存在さえ知らなかった時代です。
(当時庶民の器は木製漆器、陶器が主流)
伊万里は、国内の一握りの富裕層、諸藩の藩主や豪商達に好まれました。
(大量需要により、驚異的な進歩を遂げたと考えられる)
(多種多様な器が大量に生産され需要に応えた)
(当時20客単位で出荷)
当時の古九谷は最上手からちょっと粗めの物迄、驚く程多く現代に受け
継がれています。
江戸初期に日本初の磁器が生産され伊万里と呼ばれました。
(1610年代)
江戸時代の伊万里全てを古伊万里と呼ぶことが多いです。
(現在の佐賀県有田周辺で作られ伊万里港から出荷)
古九谷は初期伊万里のすぐ後、寛文期前後に作られた色絵磁器です
驚異的な技術進歩により、日本初の色絵磁器が誕生しました
(1640年代)
色絵は古九谷、染付は藍九谷、錆釉は吸坂と呼びます。
また青磁釉・瑠璃釉・白磁は、古九谷の名称を上下いづれかに足し呼びます。
様々な技術や様式が生まれ淘汰された興味深い時代です
(1640年~1670年代前後)
後の柿右衛門様式は、古九谷のすぐ後、延宝期に確立されたと言われています。
柿右衛門様式の登場で、古九谷は役目を終え終了します。
なぜこの時代の伊万里が古九谷と呼ばれているのでしょうか?
半世紀程前迄古九谷は、石川県の焼き物、江戸時代の九谷焼と言われていました。
昭和20年代、古九谷と呼ばれる焼き物が、実は佐賀県有田で作られたものではない
かという説が登場し、九谷説と有田説の論争が始まりました。
「九谷論争」です。
有田説は、江戸時代、海外へ輸出された伊万里の古九谷との共通性にありました。
有田説を支持する説が諸外国でも登場します。
その後、考古学的に生産地遺跡の発掘調査が双方で行われました。
素地の化学分析が行われた結果、有田説で終結しました。
終結後も古九谷の名称は残りました。ただ、その後も調査は続いています。
疑問点がまだあり、今後の研究により更に詳細が解明されればと思います。