高さ 15 cm ほど
特筆すべき目立つ傷や汚れ無し。
18世紀後半〜19世紀頃の壺屋焼茶壺です
一見すると油壺と見間違えそうですが茶壺は口の作りが特徴的で、縁は平らで内面はストンと直角の筒状に作られています。
液体を保存する目的であるユシビンや油壺だと入れやすく注ぎやすい形状が求められるため、口縁は末広がりで内面はなだらかな曲線に整形されます
また、本品は"三日月高台"という琉球古陶の中でも稀に見る作りで、これは士族の注文品と思われる上手のマカイ碗や本品のような茶壺など茶道具品に見られる意匠であり、その事からおそらく茶の湯で持て囃されていた唐津などから影響を受けたものではないかと考えられます。
琉球古陶は民藝運動によって評価されるようになりましたが、琉球の焼き物は王府の支えで発展したものであり壺屋窯への統一も王府の命によるもの
沖縄は元々1つの"王国"だったので、やはり焼き物の歴史も日本の地方窯とは大きく異なります。
王府の庇護により庶民の生活用品、いわゆる民藝と呼ばれるような雑器を主に製作していたのは確かですが、士族へ向けた高貴な作品も製作し納めておりましたので、琉球古陶を全て「民藝」と一括りに認識されている現状は少し残念に思います。
本品のような茶壺も士族のみが所有出来た高貴なものですので、きちんと区別して評価していただける方にお譲り出来れば幸いです。
有名なユシビンも士族が所有する物でしたが祝い事に酒を入れて持参するなど、酒好きな琉球士族の生活では需要も高く、階級を問わず身近な物だったため比較的多く現存しております。
そんな中でも優品の茶壺は本当に少なく、図録や美術館でも殆ど見る事が出来ません
一部の王族や上級士族では茶の湯を私的に嗜む者もいたと考えられておりますが、当時の琉球で茶道は士族に求められる教養の1つとして挙げられており、薩摩など日本との交流を円滑に行うためという公務的な側面もありました。
求められる教養は他にも書道や詩など複数あり、あくまでもその中で1つ選んで学びなさいという決まりでしたので士族の誰しもが茶道に携わっていた訳ではございません。
当時は茶葉も高級品ですからやはり上流階級の者や薩摩や江戸と直接交流を持つ御役人など、一部の者だけが茶壺を所有出来たと考えられます。
とは言え琉球の御茶文化はまだまだ不明な点が多く、日本の茶文化の流入からその後に中国茶も盛んになったりと、大まかな情勢は記録で確認できるもののその詳細は未だ不明のまま。
お茶の国内生産にも取り組んだりと近世以降の琉球社会では安価なお茶も出回り庶民の生活にまで広がっていたと考えられていますが、記録の大半は催事や公務等に関わるものであり、個々の生活を記したものは殆どないため内情は分からず終いです。
記録には日本茶から中国茶まで様々な銘柄が出てくるほど茶を嗜む文化があったにも関わらず、琉球産の茶壺が少ない事には何かしらの訳があると思われます。
少なくとも1667年に当時の陶工が王府の命で茶壺を制作、進上したと記録があるのでその頃は特別な物だった事が伺えます。
1829年には日本茶の抜荷(密輸)事件なども記録にある事からリスクに見合う程の利益と国内需要があったと思われ、首里士族(上流階級)間では日本茶を贈答品としてやり取りしていた記録もあり茶壺は単なる保存用ではなく贈答品に付随する特別な物であった可能性なども考えられます。
少し遡って18世紀後半の三司官(行政最高責任者)が記した文献には茶器の贈答についても記述があり、多くは急須と茶碗で茶壺についての記録もございますがその中には日本・中国・琉球産のものが混在している状況が見受けられ、急須も多い事から煎茶等の飲用を前提とした贈答が多かったと考えられております。
用途はなんであれ、茶壺が流入品で賄えていたのであればわざわざ壺屋で製作する意味とはなんだったのでしょうか。
ユシビンや抱瓶に特注品が多いように入れ物にもこだわる琉球人でしたし、それらは単に相手を喜ばせるというよりも権力を見せびらかし、自らを誇示する意味合いや威厳を保つ手段でもあったのでしょうから、贈答品の入れ物として壺屋窯に注文した説も有力かなと個人的には思います。
いずれにせよ、本品の年代である18世紀後半から19世紀中葉の時期に茶壺いっぱいの茶葉を所有出来たのは一部の上流階級だけでしょう。
十九世紀も後半くらいになると茶壺の作りも粗雑になり、気品の感じられる代物では無くなっていきます。
優品を入手出来る機会なんて殆どありませんので是非ご検討ください。
売れ残るようであれば出品を取り下げる事も考えておりますのでその点ご留意ください。