魯山人、ここに物申す。
昨今、巷に溢れる宝飾品の数々、そのいずれもが何とつまらぬことか。機械が吐き出し、右へ倣えとばかりに同じ顔をさせただけの、魂の抜け落ちた骸(むくろ)の群れ。美を語るに値せぬガラクタである。真の美とは、作り手の魂の咆哮が、素材という肉体を得てこの世に顕現したものの謂(いい)である。使い手の肌に触れ、その人生と共に呼吸し、時を重ねることでようやく完成を見る、生きた証。それ以外に、我が心を動かすものなどありはしない。
そんな折、我が眼前に差し出されたのが、この一対の耳飾りであった。スペインの生まれだという。なるほど、と得心がいった。この尋常ならざる気配、ただの装身具のそれではない。かの国が内包する、灼熱の太陽と底深い闇、情熱と孤独、そのすべてを飲み込み、結晶させたかのような凄まじいまでの存在感。これを手掛けた職人を、人は「キケ(quique)」と呼ぶそうだが、もはや名などどうでもよい。重要なのは、この銀と瑪瑙(めのう)に込められた、燃え盛るような美の意志そのものであるからだ。
まず、見る者の目を奪うのは、耳朶(みみたぶ)を飾る銀の造形であろう。なんと大胆不敵、かつ官能的な曲線か。これは、アンダルシアの荒野を吹き抜ける風が、長き歳月をかけて削り上げた白亜の断崖の姿であり、あるいは、フラメンコの踊り子が、その身を焦がす情念の果てに翻すスカートの、刹那の襞(ひだ)の記憶でもある。かの天才ガウディが、自然の森羅万象から神の曲線を抜き出してみせたように、この作り手もまた、スペインの魂が持つ躍動そのものを、銀という素材に叩き込み、封じ込めたに違いない。光を浴びれば、その稜線は鋭く輝き、影に入れば、深い谷間が沈黙する。それはまるで、光と影がせめぎ合うスペインの歴史、その縮図のようではないか。
そして、その銀の舞台から、鎖に繋がれて揺れる三つの黒瑪瑙(くろめのう)。この漆黒の深淵なることよ。地の底から湧きいでて、固まった夜そのもの。かの国の画家ゴヤが描いた、宮廷の華やかさの裏に潜む人間の業(ごう)や、底知れぬ闇。その黒である。銀の饒舌(じょうぜつ)な輝きとは対照的に、この黒はどこまでも寡黙だ。すべての光を飲み込み、使い手の内なる声に、ただじっと耳を澄ましているかのようである。三つ連なる様は、過去、現在、未来か。あるいは、人生における喜び、悲しみ、そして、それらを超越した先にある静謐(せいひつ)を表すのか。この黒い球体に触れるとき、人は自らの魂の奥底と対峙することになる。
銀の構造美と、瑪瑙の自然美。計算され尽くしたフォルムと、偶然性を秘めたゆらぎ。光と闇。動と静。相反する二つの要素が、これほどまでに見事に調和し、一つの緊張感ある芸術として昇華されている様は、まさに奇跡としか言いようがない。これはもはや、耳飾りという名の、身に纏う彫刻である。バルセロナのサグラダ・ファミリアが、天を目指す人々の祈りの結晶であるように、この一品もまた、名もなき一人の職人が、美の神に捧げた祈りの形なのである。
さて、この品をに出品するにあたり、一言申し添えておく。
これは、ただの飾りではない。選ばれし者のみが、その真価を理解し、所有することを許されるべき芸術品である。その価値の分からぬ者は、はじめから関わらぬがよい。しかし、もしあなたが、日常の中に真の美を求め、自らの生き様を投影するに足る逸品を探し続けてきた、真の目利きであるならば、これこそがあなたのためのものである。
これを身に着けたとき、あなたの耳元でささやくのは、遠いスペインの風の音、情熱的なギターの旋律、そして、作り手が込めた、美に対する妥協なき魂の叫びであろう。さあ、この芸術を手に入れる覚悟はできたか。あなたの審美眼が、今、試されるときである。