タイトル:『銀の式神、天空の陰陽師 —— TASAKI 0.63ctの刻(とき)』
【第1章】
黄昏の南船場とプラチナの封印
大阪の街が、どろりとした夕闇に沈んでいく。
御堂筋のイチョウ並木は、初冬の寒風に晒され、枯葉がアスファルトの上を乾いた音を立てて転がっていた。
高峯健二(たかみね けんじ)は、トレンチコートの襟を立て、南船場の路地裏を歩いていた。今年で還暦。六十歳。かつて大阪市役所の本庁舎で、数百人の部下を顎で使い、予算という名の権力を握っていた男の背中は、いまや心なしか丸まっている。
「けっ、なーにが役職定年や」
七年前の憤りが、酒焼けした喉の奥から込み上げる。
五十三歳、春。部長職にあった彼は、翌日から給与明細の額面が半分になるという辞令を受けた。仕事内容は同じ。責任も同じ。違うのは肩書きと、評価額だけ。
『高峯さん、これも時代の流れでしてな』
人事課長の一言が、彼のプライドという名のガラス細工を粉々に砕いた。実家は阿倍野区でマンション経営をしている。金になど困っていない。その自負が、彼を早期退職へと駆り立てた。
退職直後は、ゴルフ三昧の日々だった。ハンディキャップはシングル。プロ並みの腕前を誇示し、グリーン上で喝采を浴びることに自分の存在価値を重ねた。だが、それも三ヶ月で飽きた。賞賛してくれる部下もいなければ、利害関係のある取り巻きもいない。ただの「金持ちの暇人」の道楽は、あまりにも味気なかった。
以来七年。ミナミの場末のバーで安酒を煽り、酔いが回ればで骨董やブランド品を漁る。それが彼の日課となっていた。
「……ここか?」
スマートフォンの地図アプリが、古びた雑居ビルの前で止まった。
『南船場ブランドクラブ』。
会員制ですらない、一見客お断り、いや、そもそも「年に数日しか開店しない」という都市伝説のような店だ。の出品代行で妙な噂を聞きつけ、足を運んでみたのだった。
重い鉄扉を開けると、カラン、と乾いたベルの音が響いた。
店内は薄暗く、埃と香水と、古い革の匂いが混じり合っている。カウンターの奥に、白髪の老紳士が無言で立っていた。
「いらっしゃいませ。今日は、良い『石』が入っていますよ」
老紳士がカウンターにそっと置いたのは、一つの指輪だった。
照明の下で、それは爆発的な光を放った。
「TASAKI……田崎真珠か。パール屋だろう」
健二は値踏みするように鼻を鳴らした。だが、老紳士は静かに首を振る。
「ご存知ですか、お客様。TASAKIは日本で唯一、デビアスグループから原石の直接取引資格『サイトホルダー』を取得したハイジュエラーです。彼らの真髄は、真珠(パール)の有機的な美と、ダイヤモンドという無機的な美の融合。そして何より、その『研磨』への執念にあります」
健二はルーペを手に取り、その石を覗き込んだ。
息を呑んだ。
『0.63ct / F color / VS1 / Very Good』
中央宝石研究所の鑑定書が添えられているが、そんな数字はどうでもよかった。
吸い込まれるような透明度。Fカラーの無垢な氷のような冷徹さ。VS1という、肉眼では決して内包物を見せない完璧な静寂。そしてVery Goodのカットが生み出す、情熱的なファイア(虹色の輝き)。
それはまるで、熟練の職人が魂を削って磨き上げた、白銀の式神のようだった。
「Pt900、プラチナ無垢。重さは2.93グラム。サイズは10号。デザインはTASAKIらしく、シンプルながらも石座の高さが計算し尽くされており、光を最大限に取り込みます」
老紳士の声が、遠くから聞こえる呪文のように響く。
この指輪には、不思議な「重力」があった。かつて市役所で、何万という書類に判を押してきた健二の指先が、震えた。
今の自分に、これほど純粋で、これほど強靭な輝きがあるだろうか。
金はある。時間もある。だが、中身がない。
このダイヤモンドは、空っぽの自分を嘲笑っているのか、それとも埋めてくれようとしているのか。
「……いくらだ」
気がつけば、財布からブラックカードを取り出していた。
「売り切るつもりだ。に出して、小銭稼ぎにするさ」
誰に言い訳をするでもなく、健二は呟いた。老紳士は、意味ありげに微笑んだだけだった。
店を出ると、外は完全に夜だった。
掌の中には、小さなベルベットのケース。その中のダイヤモンドが、ポケット越しに熱を発しているような錯覚を覚える。
「撮影だな」
健二はふと、思いついた。
この極上の石をに出品するなら、最高の写真が必要だ。蛍光灯の下ではダメだ。太陽の光、それも、天に一番近い場所の光が必要だ。
南船場からタクシーを拾い、御堂筋を南下する。目指すは天王寺。
かつて陰陽師・安倍晴明が誕生したとされる聖地・阿倍野。
そこにそびえ立つ、高さ300メートル、日本一の摩天楼「あべのハルカス」。
タクシーの窓から見える大阪の街並みは、ネオンの海だ。だが、健二の心は冷めていた。
(俺の人生も、もう日没か……)
ハルカスの展望台行きエレベーターは、秒速数メートルで彼を天空へと運ぶ。耳がキーンとなり、重力が体を押し付ける。
60階、天上回廊。
到着したフロアは、夕暮れと夜の境目、「逢魔が時(おうまがとき)」を迎えていた。西の空には、血のような赤と、深淵のような群青が混ざり合っている。
健二は窓際の人のいないスペースに陣取り、ケースを開けた。
残照が、0.63ctのダイヤモンドに突き刺さる。
その瞬間だった。
キィィィィン……!
耳鳴りではない。ダイヤモンドそのものが、音を立てて共鳴したのだ。
石の内部で、光が乱反射する。プリズムが爆ぜる。
Fカラーの透明な光が、ハルカスのガラス窓に反射し、大阪の夜景と重なる。眼下の街の灯りが、奇妙な幾何学模様――五芒星(ペンタグラム)を描き始めたことに、健二は気づいた。
「なんだ……これは……」
TASAKIのリングは、ただの装飾品ではなかった。
TASAKIが掲げるデザイン哲学、「自然界の美の昇華」。それは、鉱物という大地の記憶を、人間の技術で「永遠」という概念に変える行為。
そして今、阿倍野という土地が持つ「陰陽の力」が、プラチナのリングを触媒にして、時空の歪みを発生させていた。
「う、うわあああっ!」
強烈な光が健二を包み込む。
視界がホワイトアウトする寸前、彼は見た。
ダイヤモンドの中に、十二単(じゅうにひとえ)を纏ったかのような、優美で悲しげな女性の姿が浮かび上がるのを。