やや、これは面白い。わたくしが常々、骨董だ古美術だと、古いものばかりに目をくれておると思ったら大間違いだ。美というものは、いつの世にも、そして世界のいかなる辺境にも、ふとした拍子にその姿を現すもの。この腕輪を見たまえ。現代の作でありながら、その肌には、数百年の風雪に耐えた古武士の如き気骨と、磨き抜かれた乙女の如き艶やかさが同居しておるではないか。
凡百の宝飾職人が作るような、ただ小さく、ただ愛らしく、女子供の機嫌を取るためだけの代物とは、そもそも成り立ちが違う。これは装飾品というよりも、むしろ一つの「構造体」と呼ぶべきものだ。スペインの乾いた大地と、ぎらつく太陽の下でなければ、このような大胆不敵な造形は生まれ得なかったであろう。名を「キケ(quique)」という。ふん、偉ぶったブランド名でも、歴史ある工房の名でもない。きっと、無口で、日に焼けた、頑固一徹の職人が、酒場の隅で独りシェリー酒を呷りながら、この意匠を思い描いたに違いない。わたくしには、その男の姿が見えるようだ。
一見して、この連なる銀の塊は、無骨で重々しく見えるやもしれん。なにしろ、その重さ四十五・八グラム。生半可な覚悟で身に着ければ、その重さに心が負けてしまうだろう。しかし、よく見るがいい。その一つ一つの塊には、正確無比な円形の穴が二つずつ穿たれておる。これこそが、この腕輪の命だ。この穴があるからこそ、重々しい銀の連なりは、光と影をその身に宿し、見る角度によって様々に表情を変える。それはあたかも、古代ローマの水道橋が、ただ石を積んだだけではない、あの連続するアーチによって永遠の美をかたち作るのと同じ理屈だ。重さと軽やかさ、存在と虚無。その二律背反を、この腕"輪"は、いとも容易く一つの美に昇華させておるのだ。
幅十四・二ミリというのも絶妙だ。これ以上太ければ下品に流れ、これより細ければ、この力強い意匠を支えきれまい。長さ十八センチ。選ばれし者の腕にのみ、その存在を許すという、誇り高い寸法よ。この腕輪が似合うのは、流行の服を追いかけ、人の評価ばかりを気にするような、か弱い女ではない。自らの哲学を持ち、己の足で凛として立つ、そういう気概のある人間だ。男でもいい、女でもいい。その者の生き様そのものが、この腕輪の最後の仕上げとなるのだ。
わたくしなら、この腕輪を肴に一晩中でも酒が飲める。この滑らかな銀の肌を撫でながら、はるかスペインの歴史に思いを馳せる。イスラムの幾何学模様の精緻さ、カトリックの荘厳なる芸術、そしてピカソやダリを生んだ、あの狂気にも似た情熱。それら全てが、この名もなき職人「キケ」の魂の中で溶け合い、この一つの作品として結晶したのだ。
とやらにこれを出品するという。結構なことだ。だが、心せよ。これは単なる銀の腕輪ではない。一つの芸術品であり、一つの哲学なのだ。その価値が分かる者だけに、この腕輪は、その真の輝きを見せるだろう。凡俗な者の手には、ただの重い銀の枷でしかない。さあ、我こそはと思う者は、名乗りを上げるがいい。このスペインの太陽と土の匂いを宿した稀代の傑作、「E163L」を手にする資格が、汝にあるや否や。わたくしは、高みからそれを見物させてもらうとしよう。