小説:銀河の重力、あるいは愛の質量
~南船場・幻影のブランドクラブにて~
第一章:沈黙の扉と90.79グラムの宇宙
大阪、南船場。
碁盤の目のように区切られた街路の、あるビルの地下深くにその扉はある。看板はない。ただ、扉の向こうから、古い革と微かな香水の匂い、そして数百の時を刻む機械たちの呼吸音が漏れ出しているだけだ。ここは、世界中の「時」が澱(よど)み、結晶化する場所。年に数日だけ開かれる、選ばれた蒐集家のための聖域。
今宵、主(あるじ)である私が、ベルベットのトレイの上に静かに置いたもの。
それが、PIAGET(ピアジェ)の『タナグラ(Tanagra)』である。
「重いですね」
客の一人が、無遠慮に手を伸ばし、そして即座に絶句する。そうだろう。見た目の優美さ、24.8mmという可憐なケースサイズからは想像もつかない質量が、指先を通して脳髄に直接訴えかけてくるからだ。
90.79グラム。
これは単なる金属の重さではない。
昨今の時計業界が競って追い求めるチタンやカーボンといった「軽さ」への逃避とは対極にある、「存在の証明」としての重みだ。卵2個分に近いその重量が、すべて18金ホワイトゴールドという貴金属の密度のみで構成されている事実。
私は客に告げる。
「お客様、それは時計ではありません。ホワイトゴールドの棺(ひつぎ)に封じ込められた、銀河の断片なのです」
第二章:ラ・コート・オ・フェの錬金術師たち
時計愛好家ならば、ピアジェというメゾンが「時計界のジュエラー」であり、同時に「ジュエラー界の時計師」であることを知っているだろう。1874年、スイスのジュラ山脈、ラ・コート・オ・フェ(妖精の丘)で創業した彼らは、極薄ムーブメントの開発で世界を驚嘆させた。
だが、この『タナグラ』が作られた時代、ピアジェは薄さだけでなく、**「彫刻」**としての時計を志向していた。
型番F0715を見ていただきたい。
この時計のデザインソースとなったのは、古代ギリシャのボイオティア地方で出土した素焼きの人形「タナグラ人形」であると言われている。しかし、その真の哲学はもっと硬質で、建築的だ。
ケース側面からブレスレットへと途切れることなく続く、**「ゴドロン」**と呼ばれる装飾。
これは、古代ローマの神殿を支える円柱のフルーティング(溝)を想起させる。ドーリア式の柱が持つ、あの厳格で力強い縦のライン。それを、ピアジェの金細工師たちは、冷たいホワイトゴールドの上に、まるで粘土を捏ねるかのように滑らかに再現したのだ。
考えてみてほしい。
硬度のある18金を、これほどまでに深く、有機的に削り出し、磨き上げるのにどれほどの時間を要したか。指でなぞると、金属であることを忘れるほどに温かく、肌に吸い付く。これは工業製品ではない。ローマの石工の魂が憑依した、貴金属の彫刻なのだ。
第三章:パヴェ・ダイヤモンドという名の星雲
視線を、その「顔」へと移そう。
文字盤の中央に鎮座するのは、ピアジェが世界中から選び抜いた、最高品質の純正ダイヤモンドである。
安易なアフターセッティングのダイヤとは、光の質が決定的に異なる。
ピアジェのジェムセッター(宝石職人)は、石を留める際、単に輝かせることだけを目的としない。彼らは、石と石の間の「影」さえも計算する。
このタナグラの文字盤において、ダイヤモンドは整然と敷き詰められた石畳ではない。それは、中心から外側へと爆発的なエネルギーで拡散しようとする**「星雲(ネビュラ)」**の姿だ。
一粒一粒が、数億年の時を経て地底から掘り出された炭素の結晶。それが今、スイスの職人の手によって、アンスラサイト(無煙炭色)のリングの中に封じ込められている。
黒いリングの上に浮かぶ、シルバーのローマ数字インデックス。
「X」や「XII」の文字は、単なる時間の指標ではない。それは、きらめく星の海を航海するための、古代の航海図である。
針が動くたび、ダイヤモンドのパヴェは新たな表情を見せる。ある時は静かな湖面のように、ある時は激しく燃える恒星のように。これを見る者は、時間を確認するのではない。「永遠」と目が合うのだ。
第四章:手首という祭壇
この時計は、ブレスレットの一コマ一コマに至るまで、神が宿っている。
一般的な時計のブレスレットは、単なる「留め具」に過ぎない。しかし、タナグラのそれは、ケースと完全に一体化した生命体の一部だ。
裏側を見てほしい。
そこには、ピアジェのホールマーク、18金を証明する「750」の刻印、そしてシリアルナンバーが、誇らしげに、しかしひっそりと刻まれている。肌に触れる裏面さえも、鏡のように磨き上げられていることに気づくだろうか。
これが**「無垢(ソリッド)」**の意味だ。中空(ホロー)のブレスレットがカシャカシャと軽い音を立てるのに対し、このタナグラは、手首の上で「しっとり」と沈む。
腕周り16cm。
このサイズは、選ばれた女性の手首という祭壇に捧げられるために調整された円環だ。
バックルを閉じた瞬間、90.79グラムの質量は、不快な重みではなく、「守られている」という安心感へと変わる。
かつて、ローマの貴婦人たちは、金の装飾品を身につけることで神々の加護を祈った。
現代において、このタナグラを左腕に巻くことは、それと同義である。
どんなに不安な夜も、どんなに孤独な決断の時も、左手首にあるこの「確かな重み」が、あなたに語りかけるだろう。
『あなたは一人ではない。この星の重力が、そして歴史の重みが、あなたを支えている』と。
第五章:南船場から、見知らぬあなたへ
我々、南船場のブランドクラブがという荒野にこの品を出品するのは、単なる商取引ではない。
これは、後継者探しの儀式である。
メーカー定価などという野暮な数字は、もはや意味を成さない。
新品のプラスチックのような時計が数百万で取引されるこの狂った市場において、真に価値あるものが何かを知る者は少ない。
だが、私は知っている。
画面の向こうにいるあなたが、この写真を見た瞬間に感じた「引力」の正体を。
それは、あなたがこれまでの人生で積み重ねてきた「時間」と「愛」が、この90.79グラムの質量と共鳴した音だ。
状態について語ろう。
クォーツムーブメントは正確に時を刻んでいる。電池という心臓を与えられ、水晶の振動によって、宇宙のリズムを刻み続けている。
外装のホワイトゴールドは、研磨によって新たな光を獲得した。微細なスレはあるかもしれない。だがそれは、かつてこの時計を愛した誰かの記憶であり、これからあなたが刻む歴史のプロローグでもある。
付属品などない。
この時計そのものが、全ての証明書だからだ。
終章:契約の時
さあ、想像してほしい。
落札の通知が届き、数日後、あなたの元に小さな包みが届く瞬間を。
梱包を解き、冷やりとしたホワイトゴールドの感触が指に触れる。
そして、その重みを腕に乗せた時、あなたの部屋の空気は一変するだろう。
ローマの風が吹き、スイスの雪が舞い、ダイヤモンドの星々が瞬き始める。
このF0715 ピアジェ・タナグラは、ただの高級時計ではない。
それは、あなたが人生の主役であることを証明するための、王冠(クラウン)なのだ。
開始価格は、神のみぞ知る。
しかし、落札価格がいくらになろうとも、この「愛の質量」に比べれば、それは紙切れの重さに過ぎない。
南船場の地下、閉ざされた扉の奥から、私は祈っている。
この銀河の欠片が、最もふさわしい、孤独で高潔な魂の持ち主の元へと旅立つことを。
入札ボタンを押す指先に、銀河の重力を感じたならば。
それは、運命だ。