仙台藩11代藩主・伊達斉義の正室・伊達蓁子(もとこ)・自筆「百人一首」の和歌
元々は、茶会の「茶掛」として掛軸に表装されておりました。
海外展示の際に「額縁」に装丁されたものです。
伊達蓁子(もとこ)の和歌は「ちらし書」と呼ばれる書法です。文字を散らして布置するわが国独自の書き方です。この書法の歴史は平安時代の康保3年(967)の「紙背仮名消息」(滋賀・石山寺)、同じく平安時代の公卿・藤原公任(きんとう)自筆『北山抄』「仮名消息」(京都国立博物館)が知られております。各行に高低の変化をつけ、流暢(りゅうちょう)に続く連綿はきわめて美しいもので「百人一首」の書法として平安時代の公卿卿などの間で広まり、その後大名家の姫君の間で用いられておりました。
《参考資料》
欧米では「仙台藩主・正室の自筆」という明確な来歴(Provenance)を持つ百人一首は欧米では高く評価されております。これは自筆自体が仙台藩主の正室(Princess / Consort)の手になる「Sendai Daimyo family (Date clan)」(仙台藩主・伊達家一族)として特に、その繊細な美学と、当時の最高峰の工芸技術が凝縮されているとして、極めて高い評価を受けているものです。徳川家の御三家、島津家、前田家とならぶ価格として他の版と比較し3倍から4倍の高い評価をうけております。とりわけ、筆者の特定と落款はとりわけ高い評価を受けております。
自筆下部の印は、伊達斉義の正室・蓁子(もとこ)の(印譜)
《篆書体の高度な線刻技術》
原本自筆には、中国唐代の漢詩人・常建(じょうけん・約708年 765年頃)漢詩が押捺されております。篆書体の微細な線刻によるもので米粒に筆で文字を描く技法と共通しております。印材に髪の毛ほどの極細な彫刻刀で描く極めて高度な技術です。
《篆書の漢文・現代語訳文》
篆書の漢文は「一身為軽舟落日西山際常隋去帆影遠接長天勢物象帰余清林巒分夕麗亭亭碧流暗日入孤霞継」、
読み下し文は「一身(いっしん)軽舟(けいしゅう)に為(な)る。落日(らくじつ)西山(せいざん)の際(きわ)、常(つね)に去帆(きょはん)の影(かげ)に隋(した)がい、遠(とお)く長天(ちょうてん)の勢(いきお)に接(せっ)す。物象(ぶっしょう)余清(よせい)に帰(き)す。林巒(りんらん)夕麗(せきれい)を分(へだ)てり、亭亭(ていてい)として碧流(へきりゅう)暗(くら)く、日(ひ)入(いり)て孤霞(こか)継(つ)ぐ。」
現代語訳文は、「わが身を小舟に託して旅行くうち、日は西山の上に落ちかかる。あの西山は去り行く舟のあとを追うようにしていつも見えている山ではるかに続く大空につらなっている。この日暮れ、万物の姿は秋のすがすがしさのたちこめる中に溶け込んでゆき、林や峰々は夕映えのうちにくっきりと浮かび上がる。はるかに去り行く揚子江の青い流れは暗く、日の沈んだあとにはひとひらの夕焼け雲が落日の色を受けついだ。」です。
伊達蓁子(もとこ)は、仙台藩10代藩主・伊達斉宗の娘で「芝姫(あつひめ)」とも称される。養子として家督相続をした仙台藩11代藩主・伊達斉義の正室となる。蓁子(もとこ)は、和歌や漢詩の素養もある教養のある女性として知られておりますが、「百人一首」を記す際、漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。
出品した「百人一首」自筆の内容(原文の読み下し文)は次の通りです。
「安倍仲丸(あべのなかまろ)」
「天(あま)乃(の)原(はら)ふりさけみ(見)れは春日(かすか)なる
みかさ(三笠)のやま(山)に出(いて)し月(つき)かも」
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」(教科書仕様)としております。
(2)・出品した「百人一首」自筆の内容(原文の現代語訳文)は次の通りです。
「安倍仲丸(あべのなかまろ)」
「大空をふり仰(あお)いではるか遠くを眺めると、
今見ている月は、かつて奈良の春日にある三笠山の上に出ていた月と同じ月なのだなあ」
現代語訳の出典:「小倉百人一首」鈴木日出男(東京大学名誉教授)
(3)・出品した「百人一首」自筆の内容(英訳文)は次の通りです。
《安倍仲丸》
When I raise my face
to look at the heavenly fields,
I see the same moon
that I saw arise in Kasuga
from Mount Mikasa
英語訳文(英文)の出典:『100 Poets: Passions of the Imperial Court』
Michael Dylan Welch(百人の詩人・宮廷の情熱)《2008年》
(4)・出品した「百人一首」自筆の内容(中国語訳文)は次の通りです。
《安倍仲丸》
心千万里,身在国。
今日安月,犹如三笠山。
備考・:「安倍仲麿(あべのなかまろ・)」は、仲丸ともいう。霊亀三年(717)、二十歳の時、第八次遣唐使の留学生として入唐する。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任した。同行した吉備真備・玄昉らは天平六年末、帰国の途につくが、仲麻呂は帰朝を許されず、その後も唐に留まった。
天平勝宝五年(753)、遣唐大使藤原清河らと延光寺で鑑真に面会して渡日を依頼。その際自らも帰国を願って許されたが、日本へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南に漂着し、再び唐に戻ることを余儀なくされた。のち、玄宗などに仕えて従三品の高位にまでのぼる。李白・王維ら文人と交流し、その詩はのち清乾隆帝勅撰の『全唐詩』にも収められている。
宝亀元年(770)、在唐五十四年、七十三歳にして唐の都長安で没した。この歌は、昔、仲麿を唐へ留学生として派遣したのだが、何年経っても帰国しないので、日本からまた使者が到着したのに連れ添って帰国しようと出発した。その時、明州という所の海辺で、唐の国の人が餞別の席を設けた。夜になって、月が大変趣深く昇ったのを見て詠んだ、と語り伝える。
「額縁入原本」
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
写真によって大名の正室らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
仙台藩11代藩主・伊達斉義の正室・伊達蓁子(もとこ)の書体は、漢文と違った和歌の素養を発揮しなめらかで、やわらかな書体は茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。小さな印は、伊達斉義の正室蓁子(もとこ)の落款。
原本自筆には、「一身為軽舟落日西山際常隋去帆影遠接長天勢物象帰余清林巒分夕麗亭亭碧流暗日入孤霞継」の漢詩文が押捺されている。唐の時代の有名な漢詩です。(内容は上記に記載)
参考資料:「安倍仲丸」
出典・財団法人小倉百人一首文化財団・所蔵
「百人一首」原本の和歌番号100(順徳院)に記されている仙台藩の藩印
写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の小さな印は仙台藩主第11代藩主・伊達斉義の正室・蓁子(もとこ)の印。「蓁子(もとこ)」は伊達蓁子のこと。
和歌の左端の篆書による漢詩の落款は「一身為軽舟落日西山際常隋去帆影遠接長天勢物象帰余清林巒分夕麗亭亭碧流暗日入孤霞継」。唐の時代の有名な漢詩です。(内容は上記に記載)
写真上右は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の左は正室・夫人一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
「額縁裏面ラベル・仙台城復元写真」
上段は額縁裏面ラベル。下段の写真は仙台城の復元写真)。
「断層画像写真」
《断層画像写真番号(和歌番号と同じ)》
拡大画像によって大名の正室らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
伊達斉義の正室で伊達蓁子(もとこ)は、漢文と違った和歌の素養を発揮しなめらかで、やわらかな書体は、茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。
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仙台第11代藩主正室・伊達斉義の正室で伊達蓁子(もとこ)・自筆(直筆)「百人一首」を出品
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自筆者に関する説明
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自筆「百人一首」自筆には、「蓁子」の落款がある。
仙台藩11代藩主・伊達斉義の正室の伊蓁子(もとこ)は、芝姫(あつひめ)と称された。
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自筆
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自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。日本の和紙の場合、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がることが断層画像写真によって鮮明となります。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。自筆原本は茶会用の掛軸から外され海外展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
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寸法
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「百人一首」原本の大きさ タテ13.0センチ ヨコ17.8センチ。額縁の大きさは、タテ40.0センチ ヨコ30.0センチ。額縁は新品です。
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解読文
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出品した書には、「原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を掲示し、平易に解読し読むことができるようにしております。
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稀少価値
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所蔵経緯(来歴)
1・自筆「百人一首」には、仙台藩11代藩主・伊達斉義の正室・伊達蓁子(もとこ)の押捺がある。
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HP
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伊達蓁子(もとこ)・自筆「百人一首」の和歌の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
ツイッター「源氏物語の世界」
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