111万値下げ 真作 村上肥出夫 油彩変形15号 珍しい母子像 1975年作品 直筆サイン 鑑定書付 川端康成が愛してやまない画家の名作☆.真作を保障します、あり得ませんがもし贋作と証明されれば落札代金は返金致します、保証期間は60日となります。一度人の手に渡った作品です、作品額ともきれいですが気が付かない汚れ痛みはあるとお考え下さい。長谷川利行ともよく比較されますが負けていません。
ゴッホに憧れ独学で油絵を始める。昭和28年(1953)20歳、 画家を志して上京、はじめは父の友人の紹介で銀座のレストラン「美濃屋」にコック見習いとして勤める。やがて「美濃屋」を退職してからは、ビル掃除、港湾労働などをしながら、粘土、レンガ、コールタール、鉄錆、鍋底の炭などを絵具代わりにして絵を描く。一時期、銀座の路上に寝泊まりする。昭和33年(1958)25歳、「篠原有司男個展」を見て感激、篠原に会う。中野や銀座でサンドイッチマンをし、安住孝史など画家志望の青年と出会う。仕事の合間に、画廊を巡ったり、美術学校に潜り込んだ。昭和35年(1960)27歳、この頃、北千住日ノ出町で下宿生活をしながら浅草の中華料理店「満楽」で働く。ここで描いた油彩《建物のある風景》が東光会に初入選。「満楽」をやめ、下宿を出て、荒川沿いの日光街道にかかる千住大橋鉄橋下で寝起きするようになる。昭和36年(1961)28歳、銀座並木通りの路上で絵を売っていたところ彫刻家本郷新に見いだされ、本郷の紹介により、兜屋画廊西川武郎の知遇を得る。その後西川の援助を受け、2年の間に60号程度の油彩を約300点描く。昭和37年(1962)29歳、《タワー》と《本郷》が安井賞候補となる。昭和38年(1963)30歳、新作150点による大個展を2月から4月にかけて開催、銀座松坂屋、名古屋松阪屋、大阪松阪屋を巡回し、好評を博す。同年4月から8月にかけてパリに遊学。昭和39年(1964)31歳、4月、ニューヨークを旅行。同年「村上肥出夫都会風景画展」(大阪毎日ギャラリー)、「巴里―紐育―東京を描く油彩・素描展」(銀座松阪屋)を開催、マスコミの注目を浴び、一躍画壇の寵児となる。昭和40年(1965)32歳、イタリア旅行。昭和42年(1967)34歳、中央大学学生だった作家北方謙三と出会い交友が始まる。昭和46年(1971)38歳、個展に際し、川端康成から「構図の整理などに多少のわがままが見えるにしても豊烈哀号の心情を切々と訴へて人の胸に通う」と評される。昭和47年(1972)39歳、パリに滞在し制作する。「サロン・ナショナル・デ・ボザール」に出品。「サロン・ドートンヌ」に出品し銀賞受賞。昭和50年(1975)42歳、個展に際し、石川達三から「村上君は時には詩を書く、時には天才的なデッサンを描く、そして何を考えて生きているんだか、私には見当が付かない。一種の出来損ないであるのか、それとも天使のような人間であるのか、とにかくつきあいにくい。しかし笑った顔は意外に純真である。そして作品はこの上もなく強烈である」と評される。昭和51年(1976)43歳、『パリの舗道』(彌生書房)刊行。昭和52年(1977)44歳、ブラジル旅行。昭和54年(1979)46歳、東京を離れ、岐阜県益田郡萩原町下呂温泉近くに自宅アトリエを構える。以後主に兜屋画廊での個展を続ける。平成9年(1997)64歳、荻原町の自宅アトリエが全焼し、約2万冊の蔵書、絵具、新作のエスキースなどが焼失する。それを境に精神に変調を来し、現在岐阜県高山市の病院で療養生活を続けている。平成16年(2004)71歳、「村上肥出夫と放浪の画家たち ―漂白の中にみつけた美― 」展(群馬・大川美術館)開催される。
天才の貴重な傑作この機会にどうぞ入手してください。
次回再出品あれば値上げご容赦ください。